翻訳の Part2です
アーティストのOlafur EliassonとRobert Irwinの2人の対話。
2007年にあったOlafur Eliassonの個展の図録に収録されていたものです。
TAKE YOUR TIME: A CONVERSATION
(2007)
Olafur Eliasson and Robert Irwin
Rl: 私はどんなの状態も扱おうと試しています。 同様にモダンアートの歴史にも取り組んでいます。 大きな変化は、美術史についての抽象的な言及を取り除いたら、少しもあなたや芸術について作品の前を通っている人は知っている必要はないのです。 それはすぐさまに社会的なレベルに置きかえることができます。 なぜなら鑑賞者はあなたと同じ合図、タイミングで感じてコメントすることができるからです。 これはもはや抽象的な言及ではなく、ひとつの経験のものだと思います。 現象が意味していることは”リアルタイムでつくられていること”です。
私たちは今面白い地点にいますーー私たちは一歩足を美術館に踏み入れた。でも、哲学的に私たちはもうひとつの足をこちら(美術館の外)に出しています。 私たちがしているゲームは矛盾をもった謎を解いている。 それは世界は変わるのではなくて、ただあなたとわたしがそう感じているだけということ。 基本的に、私たちは変わるということを示唆するようなものことをつくっているでしょう。 しかし私たちは意見交換をするフォーラムとしての美術館というアイデアを扱うべきなんだ。 美術館は時間の一瞬を代表するものであり、そしてゆくゆくは歴史的なモデルになるものです。 これが美術館の自然な発展です。 コレクションが進化したとき、おそらく美術館は信じられないような芸術を見せるようになる。 これ自体はなにも間違いではないけれど、それは美術館が開かれた討論の場を維持できていないことなんです。
私たちが美術館にこうあって欲しいけどと提案しているのは、私たちがたったいましていることをただ訓練 (exercise)できる討論の場できる場所であること。 一般的に美術館はとても短い期間これが出来るでしょう。 とはいえ私たちは参加することで、アーティストとして(社会と)調和したり結果的にアーティストになる。 しかし、同時にそうすることで私たちは批判のところで実際のところ妥協しているのです。
OE: 私は美術館がコレクションかフォーラム(討論の場)のどちらかであるべきとは思いません。 たった今私たちが話したことを、もしあなたが持って美術館に適用したとしたら、コレクションはフォーラムになりうる。これが討論の舞台でしょう。 わたしはそこに可能性があると思っていて、そして観客への大いなる信用と私自身の経験があります。
RI: よし、君と私の両方ともはじめの段階は超えたな! しかし討論の場であることを約束したり維持している美術館を見たことがないな。 2度、美術館の限界を試したことがある。 一回目はとあるインスタレーションをしたいと聞いてみた時だった。 その時は1970年でニューヨークのMOMAで奇妙なほど十分なことだった。 Jenny Lichtというとてもすばらしい女性がいた。 突然呼び出されて、ひとつ 空の部屋があるからそこで遊んで良いと言うんだ。 残念だけど、美術館がその場所のためにプログラムをなにも準備していなくて、予算もアシスタントもつけられない、それでもまだ興味がある?と彼女は言った。 もちろん、と私は答えた。 そして彼女は私はほとんどの仕事を美術館が閉まった後の夜にしなくてはいけませんと言う。 少なくとも言いたいのは、これは難しい課題だったということ。 その空の部屋はとても美しいとは言えないところで、隣にはブランクシスBrancusisの彫刻で埋め尽くされていた。 そういうことで私はその夜そこに滞在し、どうやって、何をしたいのかも分からないまま、美術館に入室してブランクシスBrancsisのただただ素晴らしい彫刻を観察していた。
to be continued..
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