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2016年3月12日土曜日

translation / TAKE YOUR TIME: A CONVERSATION 4/9


翻訳のパート4です。


今回一番最後の部分の、


私の考えでは、現象論の歴史は、反対のものを同じ土台で同じように扱うものなんじゃないか。 おそらくモダンアートの歴史にも同じだと思う。 精神が肉体より高いというヒエラルキーはないんだ。 "互いにあがる"co-arisingっていう言葉を使うのが好きなんだが、認識や認識されたものがもっとリアルや大事だと指すものではない。 それらは同等に独立してお互いにそれぞれ独占されたもの。 そしてそれにもかかわらず、私たちが機能できるために、かれらがまるでひとつのもののように働いている。 アーティストの感覚的にできる仕事は、その部分でなにが起こっているか断続的に試験することなんだ。 古くさくいのでなくて、隠された反対側に足を踏み込むことになる。


というRobert Irwinさんのところが、とても印象的な部分でした。

Robert Irwinさんはいま88歳で今も制作されているみたい。


                  Robert Irwin
引用元:
http://www.wsj.com/articles/the-artists-artist-robert-irwin-continues-to-create-and-inspire-1451572502


アーティストのOlafur EliassonRobert Irwin2人の対話。
2007年にあったOlafur Eliassonの個展の図録に収録されていたものです。


TAKE YOUR TIME: A CONVERSATION

(2007)






Olafur Eliasson and Robert Irwin




RI: 『認識とはあなた自身を認識している』"Perceiving yourself perceiving"と私は言っている。

OE: または『見るとはあなた自身を見ること』"Seeing yourself seeing" ..おそらくあなたのフレーズからきました! とはいえ、潜在能力はこの脱構築性*にあるのです。おそらく「脱構築」とはここでぴったりという言葉ではないでしょう。 でも私たちが環境を真実ではなく構築物であると考えるには良いフレーズだと思います。

*脱構築性 言葉によって意味を定義する不可能性を指摘して、言葉相互の差異に由来するものの意味。解釈を分析する手法。1960年代に始まった哲学的な文学批評。だそうです。


RI: 環境は、ただコンディションであるということ。

OE: そうです。 美術館がこの観念を持って、訪れた人たちと接するべきだということも意味していますが、その状態をつくるには多くの美術館は彼ら自身を評論的に考えることにかけています。 そして、これはただアートの世界の話ではなく質、自然と経験の構築に焦点が当たっています。 これらの問題は我々の経験産業の中で大きなの変換になるでしょう。 しかし、さまざまなサンプルは私たちの感情や意識を後押ししたり商品にできるほどまだそんなに洗練されていないと感じます。 この意見は単純のようだと思います。 でもあなたは回顧展やあなたが思う価値のある状況を申請するのが良いと思います。 そして究極的には社会の中でのあなたのポジションを変える機会になると思うのです。


Rl; 私は君の無邪気さをそこで分かち合う。 多くのアーティストが経験するだろうアトリエで1人でいる時間の中のひとつに、どこも連絡する場所がないんじゃないかと思うことがある。 それは世界の中で実際には何もしていないことは、アーティストを孤立させる。 そして、それは生きるにはとてもタフな幻想だ。

              私はほんとうにアートと哲学をとても近いものとする傾向があるんだ。 この説明はちょっと簡単すぎたけれど、大事なポイントを見やすくしてくれる。 朝、目をひらく、すると完全に形作られた世界があらわれる。私はそこに座っていないし、そのことについて考えてもいない。 ベッドの端に座って足をまわりにゆらして、そして全ての世界を自分に引き寄せる。 その世界は信じられないほど複雑なことをしているものだ。 全ての与えられた姿。与えられたものだけじゃないけれど、実際にそうとみなされている。 「どうやってしたんだ?」とは自分に聞かない。 私はただ起き上がってシャワーを浴びるんだ。 でももしわたしがそこに一瞬でも横たわっていたとしたら、2つのすばらしいことがあらわれる。それを実際に同時に受け取りたいと思い、そしてそれは与えられたものではないということだ。

              でも、もし思考が毎瞬間実際に体が何を伝えているか考えないといけないとしたら、なにも機能しない。 あぁ、たった今私の中に風が吹いた。 全てのそのような基準を発達させて、そして無意識、意識と認識のアイデアと意味はする。 しかしいつもこの奇抜な考えは気持ちをなんだか空虚になるように働く。 私の考えでは、現象論の歴史は、反対のものを同じ土台で同じように扱うものなんじゃないか。 おそらくモダンアートの歴史にも同じだと思う。 精神が肉体より高いというヒエラルキーはないんだ。 "互いにあがる"co-arisingっていう言葉を使うのが好きなんだが、認識や認識されたものがもっとリアルや大事だと指すものではない。 それらは同等に独立してお互いにそれぞれ独占されたもの。 そしてそれにもかかわらず、私たちが機能できるために、かれらがまるでひとつのもののように働いている。 アーティストの感覚的にできる仕事は、その部分でなにが起こっているか断続的に試験することなんだ。 古くさくいのでなくて、隠された反対側に足を踏み込むことになる。





つづく

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